タグ: AIと哲学

  • 「疑うこと」から始めた哲学者 ― デカルトと、考えることをやめないための哲学 ―

    「疑うこと」から始めた哲学者 ― デカルトと、考えることをやめないための哲学 ―

    # 「疑うこと」から始めた哲学者

    ― デカルトと、考えることをやめないための哲学 ―

    我思う、ゆえに我あり」。
    哲学に少しでも触れたことがある人なら、一度は聞いたことがある言葉だろう。

    この有名なフレーズを残したのが、17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトである。
    彼はしばしば「近代哲学の父」と呼ばれるが、その理由は単に有名な言葉を残したからではない。
    デカルトは、“疑うこと”を哲学の出発点に据えた人物だった。

    この記事では、デカルトの中心思想である方法的懐疑をわかりやすく紹介しつつ、
    アリストテレスやカントとの違い、さらに現代社会やAIとの関係までを考えていく。
    そして最後に、デカルト哲学の限界や批判点にもきちんと触れたい。

    1. デカルトはなぜ「全部疑おう」と言ったのか

    デカルトが生きた17世紀ヨーロッパは、価値観が大きく揺れ動いていた時代だった。

    – 中世まで絶対視されていた教会の権威
    – アリストテレス哲学に基づく伝統的学問
    – 一方で急速に発展する科学(ガリレオ、ニュートン)

    「何を信じればいいのか分からない」——そんな時代背景の中で、デカルトはこう考える。

    > 絶対に間違いのない知識だけを土台に、もう一度学問を組み立て直そう

    そこで彼が採用したのが、方法的懐疑という考え方だ。

    2. 方法的懐疑とは何か(めちゃくちゃ噛み砕くと)

    方法的懐疑とは、簡単に言えばこうだ。

    > 少しでも疑えるものは、いったん全部疑ってみる

    ポイントは、「本当に否定したいわけではない」という点である。
    懐疑そのものが目的ではなく、確実なものを見つけるための手段なのだ。

    デカルトは、次のような順番で疑っていく。

    ① 感覚は信用できるか?

    私たちは目や耳で世界を認識している。しかし錯覚や幻覚、見間違いは普通に起こる。

    感覚は間違うことがある

    ② 夢を見ている可能性は?

    「今、起きている」と思っていても、夢の中でも同じように思うことがある。

    現実そのものも疑える

    ③ 数学や論理は?

    2+3=5はさすがに確実そうだが、「悪意ある存在(悪霊)が私をだましている可能性」は?

    理性すら疑ってみる

    こうして、ほぼすべてが疑われてしまう。

    3. それでも疑えなかったもの ―「我思う、ゆえに我あり」

    すべてを疑い尽くしたデカルトが、最後にたどり着いたのがこの気づきだ。

    > 疑っているこの行為そのものは、疑えない

    たとえ世界が幻でも、悪霊にだまされていても、「疑っている私」が存在していなければ、疑うことすらできない。

    ここから導かれるのが、

    > 我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)

    つまり、

    – 体が本当にあるかは分からない
    – 世界が存在するかも分からない
    – しかし考えている主体としての「私」だけは確実に存在する

    この一点を、デカルトは絶対に確実な出発点として据えた。

    4. アリストテレスとの違い ―「疑わない哲学」から「疑う哲学」へ

    ここで、古代ギリシャの哲学者アリストテレスと比べてみよう。

    アリストテレスの場合

    – 世界は理性的に秩序づけられている
    – 人間は感覚と理性によって、その構造を理解できる
    – 「常識」や「経験」は基本的に信頼される

    デカルトの場合

    – 常識も経験もまず疑う
    – 世界より先に「考える私」を確保する
    – 主観(自分の意識)から出発する

    この違いは非常に大きい。デカルト以降、哲学は「世界とは何か」よりも、

    > 「私たちは、どうやって確実に知れるのか」

    という問いを中心に展開していくことになる。

    5. カントとの対比 ― デカルトは本当に成功したのか?

    18世紀の哲学者カントは、デカルトを高く評価しつつも、こう考えた。

    > 「確実な知識の基礎を見つけようとした点は正しい。しかし、コギトだけでは足りない」

    カントによれば、

    – 私たちの認識は、世界そのものを写しているわけではない
    – 人間の認識の「枠組み(時間・空間・因果性)」を通して世界を見ている

    つまり、

    > 「考える私」が世界をそのまま把握しているわけではない

    デカルトが信じたほど、理性は万能ではない、という批判である。

    6. デカルトと現代 ― AI・科学・情報社会との接点

    方法的懐疑は、現代でも驚くほど現代的だ。

    フェイクニュースと懐疑

    – 見た情報は本当に正しいのか?
    – 出典は信頼できるか?

    安易に信じない態度は、まさにデカルト的。

    AIと「考える主体」

    AIは文章を書き、会話し、判断もする。では、AIは「我思う、ゆえに我あり」と言えるのか?

    – AIは思考している「ように見える」
    – しかし主体的な「私」があるのかは議論が分かれる

    この問いは、意識とは何か、人間とは何かというデカルト以来の哲学的問題につながっている。

    7. デカルト哲学の限界と批判

    もちろん、デカルトは万能ではない。

    ① 心と身体を分けすぎた(二元論)

    – 心=考えるもの
    – 身体=物体

    この区別は分かりやすいが、「心と体はどうやって影響し合うのか?」という難問を残した。

    ② 他者の存在が弱い

    – 「私」の確実性は強調される
    – しかし「他人も本当に存在するのか?」は後回し

    結果として、独りよがりな哲学だと批判されることもある。

    ③ 疑いすぎ問題

    すべてを疑う姿勢は大切だが、日常生活では正直やっていられない。

    8. それでもデカルトが重要な理由

    それでもデカルトが重要なのは、彼が私たちに次の姿勢を教えてくれたからだ。

    > 当たり前を疑い、自分の頭で考え直すこと

    情報が溢れ、AIが答えを出してくれる時代だからこそ、「それは本当にそうなのか?」と立ち止まる力が必要になる。

    方法的懐疑は、哲学史の遺物ではない。それは今も、考えることをやめないための態度として生き続けている。